DINAの終焉とは? わかりやすく解説

DINAの終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/04 13:44 UTC 版)

マヌエル・コントレラス」の記事における「DINAの終焉」の解説

1977年10月22日、レテリエル事件に関する証言予定していた外務省領事局長(Director del Departamento Consular)のカルロス・ギジェルモ・オソリオ・マルドネス(Carlos Guillermo Osorio Mardones)が、コントレラスを含むDINA将校数名訪問受けた直後自宅死亡しているのが発見された。公的に自殺発表されたものの、多く証拠コントレラスDINAによる口封じ目的暗殺であることを指し示していた。マルドネスは元駐アルゼンチン公使で、レテリエル暗殺事件の際に実行役であるCIA局員タウンリーとチリ陸軍大尉アルマンド・フェルナンデス・ラリオス(Armando Fernández Larios)に偽の身分証およびパスポート発行した人物である。彼らの偽名はウィリアムズ・ローズ(Williams Rose)とアレハンドロ・ロメラル(Alejandro Romeral)であった米国側でもレテリエル事件の捜査中に彼ら2人DINAエージェントとして活動していた事を突き止め、さらにDINA局長たるコントレラス関与存在にも辿り着いている。 1977年事態重く見た軍事政権当局によってDINA解体決定される。これと共に新たな情報機関として中央国家情報局スペイン語版)(Central Nacional de Informaciones, CNI)が設置された。長官の座を退いたコントレラスには陸軍大将階級送られた。 1978年9月20日米国によるコントレラス身柄引き渡し要求が行われるが、コントレラスはラ・レイナ(英語版)の自宅立てこもりこれを拒否したその後チリ政府との話し合い経て1979年10月2日よりチリ国内臨時監獄14ヶ月収監されたものの、結局チリ政府米政府要求拒否した為に釈放された。 1980年陸軍退役その後警備会社設立したほか、フレシア(スペイン語版にあった農場購入している。

※この「DINAの終焉」の解説は、「マヌエル・コントレラス」の解説の一部です。
「DINAの終焉」を含む「マヌエル・コントレラス」の記事については、「マヌエル・コントレラス」の概要を参照ください。

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