2回目の北極行、1875年–1876年
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「クレメンツ・マーカム」の記事における「2回目の北極行、1875年–1876年」の解説
マーカムはその様々な活動を通じて多くの影響力ある人々と知り合いになり、1870年代初期にはこのコネを使ってイギリス海軍北極遠征を提案した。首相のベンジャミン・ディズレーリが、「イギリス人を傑出した民としてきた海の事業者精神」において同意した。遠征隊が出港できる状態になると、マーカムは、船隊3隻の1つHMSアラートでグリーンランドまで同行するよう招待された。マーカムはそれを受け入れ、1875年3月29日に船隊と共に出港した。マーカムは3か月間同行し、バフィン湾のディスコ島までアラートに乗っていった。この旅について、「私はこれほど幸福なクルーズをしたことはなかった。...このように高貴な仲間たちと共に航海したことはなかった。」と記していた。支援船HMSバロラスでイングランドに戻った。このバロラスが岩礁で座礁してかなりの修繕を必要としたので、帰還の行程は大幅に遅れた。マーカムがインド担当省を長期間留守にしたために、また他の様々なものへの関わりを強めていたことで、その上司が辞任を求めた。マーカムは1877年にその職を辞した。22年間務めていたので年金がついていた。 一方、ジョージ・ネアズ大佐の指揮で進んだ本隊は、HMSディスカバリーとHMSアラートの2隻で北に進んだ。1875年9月1日、この隊は北緯82度24分に達し、当時としては最北端に達したことになった。翌春、マーカムの従弟アルバート・ヘイスティングス・マーカム中佐が率いた橇部隊が北緯83度20分と最北端記録を更新した。
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