2人のマーティン・ドルーシャウト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 08:01 UTC 版)
「ドルーシャウトの肖像画」の記事における「2人のマーティン・ドルーシャウト」の解説
ドルーシャウト家はオランダからイギリスへと渡った芸術家の一族である。この家にはマーティンという名の人間が2人いたために、この版画を製作したのかどちらなのかをめぐって議論がたたかわされた。多くの論者が小マーティン・ドルーシャウト(1601年 - 1639年以降)を作者だとしている。彼はブリュッセル出身の移民であるマイケル・ドルーシャウトの息子であるが、生年と家系をのぞけばほとんど知られていない。しかし父も彫刻師であったため、マーティンもその後を継ぎ、シェイクスピアの版画を手がけることになったと考えられている。シェイクスピアが没した年に小マーティンは15歳であり、おそらくはこの詩人に会ったことがないまま、既存の肖像画をたよりに仕事をした。 小マーティンの叔父であるマーティン・ドルーシャウト(1560年頃 - 1642年に関する新事実を明らかにしたのがメアリ・エドモンドによるドルーシャウト家の調査および研究である。エドモンドによれば、大マーティンは「画家と染色家のための名誉組合(英語版)」のメンバーだったのである。彼女は次のように書いている。 シェイクスピアの版画は小マーティンの作とするのが習いとなっているが、これは文書で裏付けられた芸術家である同名の叔父がいたことを鑑みれば道理にあわないように思われる。1601年生まれのマーティン・ドルーシャウトは無名の人物であり、釣り合いがとれていない しかし2000年代に入ってジューン ・ シュルーターが「ファースト・フォリオ」の彫刻師がマドリードに滞在していたことで知られる時期に大マーティンはロンドンにいたことを示す証拠を発見した。彼女は大マーティンがシェイクスピアの肖像画の作者であるというエドモンドの主張を証明するためにこの資料調査を始めたのだが、この新発見から導き出されたのは、実際の作者は小マーティンのほうであるという結論だった。 伝統的に小マーティンが作者だとされてきたのは画家としての技量の問題からだった。大マーティンは一般に甥よりも技巧に優れた芸術家とされており、裏を返せばこの肖像画の身体の描き方にみられるぎこちなさは、小マーティンの版画に通じるものがあったのである。ナショナル・ポートレート・ギャラリーも暫定的に小マーティンを作者として認定していた。
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