1978年の中日ドラゴンズ (1978ねんのちゅうにちドラゴンズ)では、1978年の中日ドラゴンズ の動向をまとめる。
この年の中日ドラゴンズは、中利夫 監督の1年目のシーズンである。
概要 1972年 の引退後長らくコーチを務めた中利夫が監督に昇格。中監督は就任後チームの再編成に着手、さらに元太平洋 監督の稲尾和久 を投手コーチに招聘するなどシーズン前は大いに期待された。開幕直後の4月5日には高木守道 が球団生え抜きとしては初となる2000本安打を達成するが、その2週間後の19日の広島 戦で走者の衣笠祥雄 と2塁塁上で交錯した際に左足大腿部の筋肉を断裂し1ヶ月離脱、その後復帰するも7月4日に右手人差し指を骨折しまたも離脱。また5月24日には大島康徳 が死球で右手中指を骨折、5月31日には木俣達彦 が顔面に死球を受け、井上弘昭 も体調不良で離脱するなど故障者が続出、さらにその5月31日の試合を最後に谷沢健一 が持病のアキレス腱 痛が悪化して離脱。投手陣も星野仙一 が5月下旬に右肩痛で、抑えの鈴木孝政 が8月上旬に右肘痛で戦列を離れるなど投打で主力の離脱が相次いだチームは、それでも6月までは勝率5割以上を堅持していたが7月に借金生活に突入、8月に5位に転落すると、9月以降に2度の6連敗を喫し以後浮上することはなかった。投手陣は三沢淳 や堂上照 などがローテを守ったものの三沢の12勝が最高で、堂上は最多敗を記録し、松本幸行 は防御率が5点台に低下した。打撃陣は前述のように主力選手の故障や体調不良が目立った中で、藤波行雄 が高木の穴を埋め、ジーン・マーチン が谷沢や大島をカバーしたが、チーム打率は前年から低下し盗塁数もリーグ最下位。9月に3試合連続サヨナラ負け、10月4日には目の前で初優勝を決められるなど終盤はヤクルト の引き立て役となり、中監督の1年目は苦しいシーズンとなった。
チーム成績 レギュラーシーズン 1978年セントラル・リーグ順位変動 順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 最終成績 1位 巨人 -- 巨人 -- ヤクルト -- 巨人 -- 巨人 -- ヤクルト -- 2位 大洋 0.0 大洋 0.5 巨人 2.5 ヤクルト 2.0 ヤクルト 1.5 巨人 3.0 3位 中日 3.0 ヤクルト 1.5 大洋 3.0 大洋 5.5 大洋 3.5 広島 5.0 4位 ヤクルト 3.5 中日 3.5 中日 5.5 中日 10.5 広島 5.5 大洋 7.5 5位 阪神 4.0 広島 9.0 広島 8.5 広島 11.0 中日 9.0 中日 20.0 6位 広島 4.5 阪神 12.5 阪神 19.5 阪神 22.0 阪神 25.5 阪神 30.5
[1]
オールスターゲーム1978 できごと 選手・スタッフ [2]
表彰選手 ドラフト 脚注 注釈
出典 1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。