1951–1960とは? わかりやすく解説

1951–1960

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:18 UTC 版)

カッシン・ヤング (駆逐艦)」の記事における「1951–1960」の解説

1951年9月8日再就役し、1952年1月4日サンディエゴ出航して新し母港であるロードアイランド州ニューポート向かった1952年9月カッシン・ヤング造船所経験する4つ大きなオーバーホール内の1つを受けるためボストン海軍工廠乾ドック入渠した。この時の改装においてカッシン・ヤング近代化改修が行われた。対潜迫撃砲ヘッジホッグ2基とMk 32 短魚雷発射管2基が搭載され21 inch (533 mm)五連装魚雷1基が取り外された。また、2連装ボフォース 40mm機関砲4基が4連装2基に換装された。前部マストは、改良されレーダーシステム搭載のため三脚マスト換装した。フロリダ沖での対潜演習前段階として、1953年5月7日から6月12日にかけカリブ海にて試運転慣熟訓練が行われた。1953年9月16日から11月30日にかけ、地中海にて、第6艦隊との初めての任務行った1954年初めにカリブ海行われた他の試運転演習の後、カッシン・ヤング世界一周のため5月3日ニューポート出港した。これは西太平洋における第7艦隊との演習や、韓国沖での哨戒、そして極東地中海の港への親善訪問含んでいた。ニューポート帰投したのは1954年11月28日の事であった。それから1960年までのカッシン・ヤング任務は、カリブ海および東海岸沖における演習や、1956年および1956年から1957年の冬における地中海で航海1958年ヨーロッパ西岸の港への巡航含んでいた。最後海外派遣最中、舵の問題発見されたためフランス乾ドック入渠した。その時点で、修理費は老朽艦の維持費上回っていた。1960年2月6日退役のためノーフォーク海軍造船所到着した1960年2月29日フィラデルフィアのNISMF(Naval Inactive Ship Maintenance Facility)での長期保管移された。

※この「1951–1960」の解説は、「カッシン・ヤング (駆逐艦)」の解説の一部です。
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