1951–1960
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「カッシン・ヤング (駆逐艦)」の記事における「1951–1960」の解説
1951年9月8日に再就役し、1952年1月4日にサンディエゴを出航して、新しい母港であるロードアイランド州のニューポートへ向かった。1952年9月、カッシン・ヤングが造船所で経験する4つの大きなオーバーホールの内の1つを受けるためボストン海軍工廠の乾ドックに入渠した。この時の改装においてカッシン・ヤングの近代化改修が行われた。対潜迫撃砲ヘッジホッグ2基とMk 32 短魚雷発射管2基が搭載され、21 inch (533 mm)五連装魚雷1基が取り外された。また、2連装のボフォース 40mm機関砲4基が4連装2基に換装された。前部のマストは、改良されたレーダーやシステムの搭載のため三脚マストに換装した。フロリダ沖での対潜演習の前段階として、1953年の5月7日から6月12日にかけカリブ海にて試運転と慣熟訓練が行われた。1953年9月16日から11月30日にかけ、地中海にて、第6艦隊との初めての任務を行った。1954年の初めにカリブ海で行われた他の試運転や演習の後、カッシン・ヤングは世界一周のため5月3日にニューポートを出港した。これは西太平洋における第7艦隊との演習や、韓国沖での哨戒、そして極東や地中海の港への親善訪問を含んでいた。ニューポートに帰投したのは1954年11月28日の事であった。それから1960年までのカッシン・ヤングの任務は、カリブ海および東海岸沖における演習や、1956年および1956年から1957年の冬における地中海での航海、1958年のヨーロッパ西岸の港への巡航を含んでいた。最後の海外派遣の最中、舵の問題が発見されたためフランスの乾ドックに入渠した。その時点で、修理費は老朽艦の維持費を上回っていた。1960年2月6日、退役のためノーフォーク海軍造船所に到着した。1960年2月29日、フィラデルフィアのNISMF(Naval Inactive Ship Maintenance Facility)での長期保管に移された。
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