1715年の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 01:35 UTC 版)
「1715年ジャコバイト蜂起」も参照 後に「the 'Fifteen」(ザ・フィフティーン、「あの15年」の意)とも呼ばれるほど深刻で衝撃的だったこの武力蜂起は、1714年のハノーヴァー朝成立、ジョージ1世のグレートブリテン王国国王即位に端を発している。アン女王の死に伴い、北ドイツの有力諸侯であったハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒは、王位継承法の規定に基づいてジョージ1世として即位した。しかしグレートブリテン王国全体がこれを唯々として受け入れたわけではなかった。確かにジョージ1世はステュアート家の血を引いてはいたが(母方の祖母エリザベスがアンの曾祖父ジェームズ1世の娘でアンとは又従兄)、ジェームズ2世から5親等も離れており、ジェームズ2世の子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ老僣王、自称ジェームズ3世)が存命中だったこともあわせて、グレートブリテン王国内は騒然となった。 バーミンガムやオックスフォードなどで民衆暴動が起こり、さらに1715年の総選挙で大勝したホイッグは、それまで政権を担っていたトーリーに対する苛烈な弾圧を加えた。これには1713年のユトレヒト条約がグレートブリテン王国に経済的利益をもたらす一方で、同盟国であるドイツ諸邦やオランダを切り捨てる行為でもあったため、ジョージ1世がトーリーを信用していなかったという側面もある。 こうした動きに、スコットランドでは、ジョージ1世に忠誠を誓約したにもかかわらず国務大臣から解任されたマー伯ジョン・アースキンが1715年9月6日に挙兵、トマス・フォスターが北部イングランドのウォークワースで10月6日にこれに続いた。マー伯の軍勢はスコットランドの大部分を制圧したが、政府軍の将軍アーガイル公ジョン・キャンベルに11月13日のシェリフミュアの戦い(英語版)で敗北して兵站が底をつき、11月14日にフォスターが政府軍に包囲されて降伏した。こうして次第に事態は政府軍有利に展開し、ジェームズ老僣王が12月13日にスコットランドに上陸したときには帰趨は決していた。結局翌年2月4日、ジェームズ老僣王は何もできずフランスに逃げ帰った。
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