1634年の大火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 02:17 UTC 版)
「アーレン (バーデン=ヴュルテンベルク)」の記事における「1634年の大火」の解説
ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン軍のために戦って帰還したベルンハルト・フォン・ザクセン軍所属の2人の見習士官が、1634年9月5日から6日にかけての夜間に2台の火薬車に火を放った。すでに市内に入っていた敵のクロアチア兵の面前に軍事物資を与えず、その進軍を阻もうとしたのであった。その結果都市火災が起こった。火災の規模については様々な説がある。17世紀の記録によれば、教会もシュヴェル塔を除くすべての建物も火災の犠牲となり、生き延びたのはわずかに9家族だけであった。19世紀のヘルマン・バウアーの研究は、この記録は辻褄が合わず、誇張されていると結論づけた。しかし、市教会とおそらくかなりの範囲の建物が失われたことは間違いない。市教会の増築部分に入居していた市の文書館も、収蔵していたすべての文書とともに焼失した。火災後、両軍の略奪兵が街を駆け回った。この街が元の人口約2,000人に復したのは、ほぼ100年後のことであった。 プファルツ継承戦争では1688年にフランス軍がアーレンを通過したが、他の集落同様大きな損害を残さなかった。1702年にスペイン継承戦争で、1741年にオーストリア継承戦争で、さらには1743年にも皇帝軍がこの街を行軍した。 市教会の塔(ドイツ語版、英語版)が1765年に倒壊した。おそらく1634年の火災後の再建時に力学的な配慮が十分でなかったためと推測されている。倒壊した塔は、塔の監視人の子供2人を巻き添えにした。子供たちはこの時の怪我で死亡した。市教会自体も取り壊され、祭壇の十字架だけが残された。損傷は甚大で教会は跡形なく取り壊されたが、同じ年に現在の形の新しい教会堂の建設が始まった。 1749年11月22日に、中立の帝国都市アーレンで、ヴュルテンベルク公国とエルヴァンゲン修道参事会諸侯との間でオーバーコッヘンをプロテスタントとカトリックが共存する地域とするアーレン議定書が締結された。
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