龍仁の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
日本軍が漢城へ進撃している間、全羅道長官李洸(巡察使)は軍を首都へ派遣して日本軍を食い止めようとしたが、首都陥落との報に接し、退却した。しかし、志願兵を集めたことにより軍隊は50,000〜100,000人 に上っていたため、李洸と民兵の指導者たちは目標を漢城奪還と定め、漢城から42km南方の水原に軍を進めた。6月4日、勇将として選ばれた白光彦(助防将)・李之詩(助防将)らが率いる、精兵として選ばれた数千九百人の朝鮮兵が龍仁の城を奪取しようと攻撃したが、脇坂安治家臣配下の守備隊600人は、脇坂安治本軍の援軍が到着するまで朝鮮軍との交戦を避けた。脇坂安治本軍1,000人が到着すると、日本軍は反撃を開始し朝鮮軍を破り、10万人 の朝鮮軍は崩壊し武器を捨てて退却した(龍仁の戦い)。朝鮮軍では、白光彦、李之詩、その弟李之礼ら勇将が戦死し、李洸(全羅道巡察使)、尹国馨(忠清道巡察使)、金睟(慶尚道巡察使)、権慄(光州牧使)ら朝鮮軍指揮官らは各地へ逃走していった。この後、全羅道・忠清道の朝鮮軍は二度と動き出さなかった。 なお、6月1日付で朝鮮の陣から日本本国に充てられた発給者・宛所不詳ながら、内容から加藤清正によるものと推定可能な書状が残されており、発給者(清正)は明への進軍を急ぐべきとの考えから、(後述の八道国割を定めた)諸将の談合を「迷惑」と糾弾して、韃靼との境界(=咸鏡道)に派遣されることで渡海した秀吉が明の国境まで進軍した時に合流が間に合わないことを憂慮する内容となっている。また、小西行長と協力して敵軍を撃退したことにも触れており、発給者が清正であるとすると、この段階で加藤清正と小西行長の確執はまだ存在しなかったことになり、ここまで触れてきた確執のエピソードについては疑問が呈されることになる。
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