齋藤清左衛門との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
水谷の申請が認められて南鳥島は日本領に編入されたものの、島の開拓権を巡って激しい争いが勃発した。水谷のライバルは焼津の商人、齋藤清左衛門であった。齋藤は水谷が南鳥島を発見し、アホウドリの羽毛採取を開始した1896年以前の1893年に南鳥島を発見し、上陸していたと主張した。また齋藤は水谷という人物は金十舎の社員であり、開拓に必要なノウハウ、資金が無いと指摘し、自分は商人として十分な資産を所有しており、しかも伊豆諸島の式根島で漁業開発を行ってきた実績もあるとアピールした。 1898年1月、水谷は齋藤と警官立ち合いのもとで示談交渉を行った。しかし当時の新聞によれば、南鳥島にはアホウドリが多数生息していることが知れわたると、一獲千金を狙って開発権を申請する人物が現れて激しい争いとなり、申請者同士の殴り合いが起きたと報道されており、示談は成立しなかったと考えられる。 東京都は水谷の申請を認める決定をした。理由としては齋藤は1893年に南鳥島を発見、上陸したと主張しているものの、当時そのような話は全く世間に知られることが無く、信憑性に欠けていた。また齋藤は官庁への報告も行っていなかった反面、水谷は発見の経緯を官庁に報告しており、しかも開拓権の取得もすみやかに申請していたためであった。東京都は水谷に南鳥島の借地権を与えるよう、内務大臣に稟申した。1898年9月19日、内務大臣板垣退助名で東京都の稟申を許可する形で、水谷に南鳥島開発権を認める決定を行った。
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