麴氏高昌
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麴嘉は高昌王に即位すると、柔然可汗の那蓋(在位:492年 - 506年)に臣従した。そのため、鞏顧礼と鞏義舒は韓安保に随従して洛陽に至る。 柔然の始平3年(508年)、柔然可汗の伏図(在位:506年 - 508年)が高車王の弥俄突に殺されると、麴嘉は高車に臣従した。また、麴嘉は嚈噠(エフタル)に攻撃されて王位不在となった焉耆(えんき)国の民衆から焉耆王になるよう頼まれたので、その第二子を派遣して焉耆王として焉耆国を統治させた。 永平元年(508年)、麴嘉は兄の子である左衛将軍で田地郡太守の麴孝亮を京師(洛陽)に遣わして参朝させ、内徙を求めた。そこで北魏は龍驤将軍の孟威に涼州兵3千人をつけてこれを迎えさせた。麴嘉はその後も何度か遣使を送っては珠像・白黒貂裘・名馬・塩枕などを献上した。 永平3年(510年)、麴嘉は北魏に遣使を送って朝貢し、宣武帝(在位:499年 - 515年)はまた孟威を遣わしてこれを労わせた。 延昌(512年 - 515年)中、北魏によって麴嘉は持節・平西将軍・瓜州刺史を拝命、泰臨県開国伯に封ぜられた。 熙平(516年 - 518年)の初め、遣使朝献。神亀元年(518年)冬、麴孝亮はふたたび内徙を求めたが、朝廷は許可しなかった。 正光元年(520年)、孝明帝(在位:515年 - 528年)は員外将軍の趙義らを麴嘉に遣わした。麴嘉は朝貢不絶で、また遣使奉表し、自以辺遐、不習典誥、五経・諸史の貸出を求め、あわせて国子助教の劉燮を博士とすることを求めたため、孝明帝はこれを許した。 麴嘉が死ぬと孝明帝は彼に鎮西将軍・涼州刺史を贈った。また、子の麴堅が立ったが、後に関中で賊乱が起きたため、使命は遂に途絶える。 普泰元年(531年)、麴堅が遣使朝貢したため、北魏は平西将軍・瓜州刺史・泰臨県伯とした。また加えて衛将軍とした。 永熙(532年 - 534年)中に至り、特進儀同三司、進んで郡公となる。後に遂に隔絶。 西魏の大統14年(548年)、文帝(在位:535年 – 551年)は詔で麴堅の世子である麴玄喜を高昌王とした。恭帝2年(555年)、また田地郡公麴宝茂を高昌王とした。 北周の武成元年(559年)、その王は遣使を送って方物を献上した。保定(561年 - 565年)の初め、また遣使来貢。
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