鹿野会長時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:15 UTC 版)
2011年、民主党内で菅おろしの動きが活発化する中、筒井信隆らポスト菅に鹿野道彦を推す議員らは、6月30日に鹿野擁立を目指す勉強会を開き、8月19日に「鹿野道彦氏に代表選出馬を要請する会」として正式に代表選への出馬要請を行った。これを受けて出馬した鹿野は、1回目の投票で4位に終わったが、海江田万里対野田佳彦の決選投票では、上着を脱ぐ合図で鹿野陣営の議員らに2位の野田に投票するよう指示し、キャスティング・ボートを握って野田を当選に導いた。代表選直後の8月31日、鹿野は自らを支持した議員らと政策グループを設立し、後に「素交会」と命名した。9月に発足した野田内閣では鹿野が農林水産大臣に再任され、前田武志が国土交通大臣として初入閣した。 2012年1月召集の第180回国会では、素交会所属の樋口俊一衆議院議員の公設第一秘書であった人物が、鹿野農林水産大臣から農林水産省顧問に任命されていたことや、筒井農林水産副大臣の主導する対中輸出促進事業の支援で設立された「農林水産物等中国輸出促進協議会」の代表理事に就任していたことが批判され、さらに5月末には在日中国大使館の一等書記官が同事業を通じて農林水産省の機密文書を入手した疑惑が浮上し(李春光事件)、6月の内閣改造では鹿野、筒井と参議院で問責決議を受けた前田が退任することとなった。 9月の代表選では、細野豪志擁立の動きに与したものの、本人の不出馬表明で断念し、会長の鹿野自ら出馬したが、再選を目指す野田が圧勝した。代表選後の内閣改造では素交会からの入閣はなく、党役員人事では鹿野が党副代表に就任した。
※この「鹿野会長時代」の解説は、「素交会」の解説の一部です。
「鹿野会長時代」を含む「素交会」の記事については、「素交会」の概要を参照ください。
- 鹿野会長時代のページへのリンク