鷹栖村の開基
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 17:47 UTC 版)
北海道庁による北海道の一括統治が始まった1886年(明治19年)ころから石狩川上流にある上川郡の開発が本格的に始まり、以降この地域への移住者が相次いだ。当初上川郡の開拓は、駅逓の置かれた忠別太(現在の旭川市神居)をはじめとして石狩川左岸にあたる地区を中心としていた。1890年9月、上川郡に神居村・旭川村・永山村の三村が初めて置かれたが、このとき石狩川右岸はどの村にも属していなかった。 右岸地域への移住は、1891年(明治24年)4月15日、埼玉県人らがチカプニ原野に入ったのが最初である。彼らは現在の旭川市旭町から大町にかけての一帯で開墾を行い定住を始めた。これに伴って石狩川右岸にも村を設けることとなり、1892年(明治25年)2月4日の北海道庁令により告知された。これが鷹栖村である。鷹栖という名は、アイヌ語名である「チカプニ」(chikap-un-i、「鳥の居るところ」の意)を意訳したもので、初代道庁長官となる岩村通俊が命名したといわれる。 庁令によれば鷹栖村の範囲は「神居村神楽村旭川村永山村ニ属セザル地方一円」、すなわち石狩国上川郡のうち石狩川右岸の全域であり、源流のある大雪山から現在の愛別町・比布町を経て、空知郡に接する地域までを含む広大なものであった。 鷹栖村には当初戸長役場が設けられなかった。開村の翌年である1893年1月14日に永山外二村戸長役場(まもなく所管する村が増え「外四村」となる)の管轄となったが、同年6月24日に永山村が単独で戸長役場を設けると新たに旭川外三村戸長役場が設置され、鷹栖村もこの下に置かれた。 この年約600人であった鷹栖村の人口は、相次ぐ入植により翌年には約1,300人へと倍増した。このため1895年(明治28年)6月15日、鷹栖村は旭川村外三箇村戸長役場から独立し、単独の戸長役場を持つこととなった。庁舎は近文原野一線九号乙(現在の旭川市末広東1条11丁目)に置かれた。
※この「鷹栖村の開基」の解説は、「東鷹栖町」の解説の一部です。
「鷹栖村の開基」を含む「東鷹栖町」の記事については、「東鷹栖町」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から鷹栖村の開基を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 鷹栖村の開基のページへのリンク