高陽院の小寝殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
大規模寝殿造の変化の始まりは高陽院の小寝殿で、『栄花物語』には、長久4年(1043)12月1日の記事に東対が無いこと、天喜元年(1053)8月20日の記事に小寝殿があることが記されている。記録に残る最初の小寝殿である。この小寝殿を太田静六はこう説明する。 小寝殿とは中央の寝殿に準じる寝殿という意味で、対が南北棟であるのに対し、小寝殿は寝殿と同じく南正面で東西棟が普通だが、時には対と同じく南北棟の場合もある。今回のように小寝殿としたのは頼通の創意によるかと思われるがこれは同時に平安盛期も末になると、正規寝殿造中にもぽつぽつ変形が現れてきたことを示す。 変形の無い正規寝殿造の時代があったということは証明されていないが、小寝殿が寝殿造の変化の象徴であることでは研究者の意見は一致している。小寝殿は別御所の形式をとる鎌倉時代の小御所との関連性も指摘され、古代の小寝殿から中世の小御所へと至る過程が想定されている。 高陽院のような小寝殿が何故現れたのか、あるいは用いられたのかについては、独立した家政機構を持ち、本来屋敷も独立するのが普通である二人が同じ屋敷内に住む場合に備えてだと考えられている。その独立性が更に高まった段階が「角殿」「角御所」「小御所」であろうとされる。それらは同じ敷地内でも門を別にし、別の屋敷として扱われる。例えば正月の拝賀に訪れた公卿は、まず寝殿の院に拝賀し、次ぎに同じ敷地内の女院への拝賀に向かうが、そのときには一旦門を出て「角殿」「角御所」または「小御所」用の門から入るなどである。
※この「高陽院の小寝殿」の解説は、「中世の寝殿造」の解説の一部です。
「高陽院の小寝殿」を含む「中世の寝殿造」の記事については、「中世の寝殿造」の概要を参照ください。
- 高陽院の小寝殿のページへのリンク