高間家の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:52 UTC 版)
高間家は、美濃国の守護土岐氏の末裔である。土岐氏21代の山城守定政が美濃において死去した後、その孫が大和国高間(奈良県御所市)に移り住んで、姓を高間と改めた。高間与一郎正之のときに浅野長政に仕えた。 浅野長政(豊臣秀吉の五奉行の首座に列していた・太閤検地の奉行)時代は、奉仕順(旧浅野・臣録による)では第6位にあった。関ヶ原の戦いでは浅野家は徳川家康についたことから甲府、紀州和歌山、広島へと転封してくる。 広島の浅野宗家の家臣団では、高間家は最古参に世臣である。8代高間正益に男子がなく、広島藩の御用人本役の千石取りだった奥勘十郎の第三子・多須衞(たすえ)が高間家に入って9代目を継いだ。高間多須衞は武具奉行を経て、八条原城の築城奉行、大監察になる。 高間省三はその多須衞の長男で、誉れ高い秀才だった。浅野家の藩主父子は高間省三の戦死を悼み、多須衞あてに個人の感謝状とともに50石の加増がおこなわれた。広島藩における戊辰戦争の従軍兵は、神機隊の他の諸隊を含めると2700人余り。生死を問わず、そのなかで最高の行賞である。 省三の弟の彌之助は明治時代に慶応義塾に学び、広島で英語教師、やがて民権運動家となり、上海で客死する。彌之助の長男・完(たもつ)は太平洋戦争で海軍中将になっている。
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