高茶屋村の成立と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 07:21 UTC 版)
町村制の施行により、小森村と小森上野村が高茶屋村となり、小森と小森上野の2つの大字を設置した。高茶屋村は米や麦、茶を生産する農村であり、多くの農家が自宅で養蚕を営んでいた。生産した繭の多くは津市柳山にある関西製糸へ販売していた。農村だったこの地域に(明治26年)12月、参宮鉄道が開通し高茶屋駅が開業すると、一志郡、特に久居町方面から伊勢神宮参拝の乗降客で賑わいを見せ、駅前には旅館や飲食店ができ、客待ちの人力車や6人乗り馬車も出現した。こうした賑いは1929年(昭和4年)の伊勢電気鉄道、1930年(昭和5年)の参宮急行電鉄の開通による乗降客の激減で幕を閉じた。駅前の盛衰の一方で、大正時代より台地の開墾が始まり、松林は広大な桑畑に姿を変え、養蚕による好況がもたらされた。さらに津市半田にあった三重県種畜場(現:三重県畜産研究所)が高茶屋に移転した。 第二次世界大戦に突入すると、台地上の約500m2におよぶ広大な敷地が、大日本帝国陸軍および同海軍、逓信省から軍事目的での買収提案を受け、海軍が約270 m2を購入して従業員35,000人の軍需工場を建設することを決定した。これを契機として津市と高茶屋村の間で市町村合併の計画が持ち上がり、1939年(昭和14年)7月1日に高茶屋村を津市に編入することとなった。合併により、小森と小森上野はそのまま大字として津市に継承され、一時的に「高茶屋」の地名が住所上消滅した。
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