高田藩領期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/18 03:35 UTC 版)
寛保元年(1741年)11月、高田藩主松平定賢を陸奥国白河へ、白河藩主松平明矩を播磨国姫路へ、姫路藩主榊原政純を越後国高田へ転封する三方領地替えがあり、それに伴い陸奥国白川、田村、石川、岩瀬の四郡の一部が高田藩の分領(浅川領)となった。新しい高田藩の領知は15万石であったが、そのうち半数以上の8万4千石余りが高田から遠く離れた浅川領であった。 寛保2年(1742年)3月、石川郡浅川村本町東裏に陣屋を設置。高田藩の役人は陣屋をおく予定であった石川町に滞在していたが、川の氾濫によって仮宅が浸水し通行も不自由になったので、この地では不適と判断し、陣屋の設置を取りやめた。代わりに、設置費用を負担する者が現れた浅川村に陣屋を置くことにし、3年後の延享2年(1745年)に落成した。 宝暦元年(1751年)11月、大火に見舞われ陣屋が類焼する。問屋方から出火し、陣屋建物・長屋・侍屋敷32軒、町内63軒を焼いた大火災であった。 天明3年(1783年)7月、高田より浅川領内への移民が行われる。土地が悪く、苦役や飢饉(天明の大飢饉など)も重なり、浅川領は人口は減少の一途をたどり、手余り地が増大していった。年平均100人の人口減少は藩にとっても放置し得ない重大な政治課題であり、金や米などを支出するなど対策に腐心していた。その対策の一つとして、高田本領内から浅川領への移住希望者を募った。天明3年(1783年)春、浅川領の大庄屋が移民募集に赴いたときには、一家族10人の応募があった。この他にもたびたび移民の募集を行っていたようではあるが、この一家族を除いて移住した記録は見つかっていない。 寛政10年(1798年)1月、浅川領内全域で打ちこわしが広がる(浅川騒動)。百姓らが蜂起し、大庄屋宅などを打ちこわしながら陣屋へ迫った。浅川騒動を参考のこと。 文化元年(1804年)10月、大火に見舞われ陣屋が類焼する。 文化2年(1805年)本町西裏へ陣屋を移す。夜中、町内より出火し、激しい風に煽られて陣屋建物を焼失させた。風向きが悪く類焼したことを考慮し、新しい陣屋を本町西裏(現浅川小学校敷地)に建てることになった。校内に浅川陣屋跡の記念碑が建てられている。
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