高原夏期大学
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1921年(大正10年)8月22日〜25日に清光寺を会場として、山梨教育会北巨摩支会の主催する高原夏期大学(夏期講習会)が開かれた。講習会は、「文学」、「思想」、「法律」などをそれぞれの講師が担当したが、「宗教」は当時の清光寺住職だった高橋竹迷(たかはしちくめい)が受け持った。高原夏期大学は、明治以来文部省の指導の下に行われてきた教員向けの講習会とは違い、一般の人も参加できるようにしたもので、山梨県で初の試みだった。翌1922年(大正11年)には、8月1日〜10日に山梨教育会と北巨摩教育支会の合同で第1回高原夏期大学が小淵沢小学校で開催された。続いて1923年(大正12年)8月1日〜5日に北巨摩教育支会主催で清光寺において第2回夏期高原大学が開催され、「哲学」を東京高等師範学校教授で文学博士の得能文(とくのうぶん)が、「宗教」を仏教学者の加藤咄堂(かとうとつどう)が、「講演」を太田秀穂が、「文学」を自死した有島武郎の替わりに芥川龍之介が担当した。芥川龍之介は8月2日の午後と3〜5日の午前の合計4回の講義を担当した。この時の高原夏期大学には連日250人余りの人が参加し、大盛況だった。 清光寺は高原夏期大学を主導した堀内柳南の菩提寺であり、芥川龍之介が柳南に贈った句「藤の花 軒端の苔の 老いにけり」の軸装を有する。1993年(平成5年)12月8日には境内にこの句の句碑が建立された。
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