駅弁販売の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 02:53 UTC 版)
札幌駅では、明治中期に営業人の高田文蔵が初めて駅弁を販売し、北海道の鉄道と札幌駅の発展もあって大成功を収めたが、1897年に廃業していた。札幌駅での商売人は他にもいたが、弁当専門の技術の持ち主は不在であった。そこで札幌駅職員は、駅近隣の料理人として、比護に駅弁販売を依頼した。比護は、弁当作りも乗客商売も未経験であったため、急な依頼に戸惑いを隠せなかった。また繁盛とはいえないまでも、食堂を構えた一国一城の主とのプライドから、駅商売にも抵抗があった。しかし生活のため、一念発起して料理店を閉業し、駅弁販売屋への転向を決心した。 当時は駅弁の概念がまだ無い時代であり、比護は作り方に迷った。唯一の先輩である高田文蔵は廃業してしまい、弁当の中身も売り方も不明、それを知っている駅関係者や商売人仲間も皆無であった。これには、当時の駅弁は米1升が買えるほど高価で、ある程度裕福な旅行者などだけが買えるものであり、駅関係者のほとんどが弁当の中身を目にしたことがないとの事情もあった。 比護は駅で旅行者1人1人に声をかけ、今まで食べた駅弁のことを聞いて回った。しかし駅弁の中身は、北海道では入手できない食材や、他の土地の名産品ばかりで、参考にはなるとは言い難かった。それでも生活のためもあり、可能な限りの食材を揃え、東京や大阪で売られていたという駅弁を模倣し、1899年(明治32年)に「比護屋」として駅弁販売を始めた。旅行者たちは、新たな駅弁屋に興味を示したものの、「珍しい料理が何もない」「これでこの値段は高い」と、比護に酷評を浴びせた。
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