首都機能・武家政権に注目したもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:41 UTC 版)
「日本の首都」の記事における「首都機能・武家政権に注目したもの」の解説
平氏政権による福原京の計画が平安京との複都構想だったとし、また鎌倉幕府の置かれた鎌倉が、京都と首都機能を分担した事実上の複都制であるとするもの。 江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)では、外交や内政の指示など駿府が実質的な首都として機能した。 江戸は中央政府の所在地として首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが明治政府の置かれた東京に移ったとするもの。 江戸時代に江戸は政治・行政の中心と認識され、首都として機能もし、外国人も江戸を首都と認識していたとするもの。1719年(享保4年)の朝鮮通信使・申維翰の『海遊録』によれば、都(首都)は初め大和にあり、その後豊臣秀吉が大坂に、次いで徳川家康が江戸に移したと認識されていたという。
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