飯能戦争にて自刃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:21 UTC 版)
同月18日、振武軍は飯能に入り、翌日に本営を能仁寺に構えた。一方で新政府軍は残党の掃討命令により、彰義隊を討伐した勢いそのまま飯能まで迫ってきていた。23日の明け方、新政府軍と振武軍の戦いが始まった(飯能戦争)。昼前には振武軍は壊滅し、新政府軍の勝利に終わった。この戦いで、能仁寺ほか3か寺、飯能市街地のほぼ半分が焼失した。 成一郎や惇忠とはぐれた平九郎は、飯能と越生の境にある顔振峠にたどり着いた。峠の茶屋の女主人は、すぐに平九郎が旧幕府軍の隊士であると見抜き、新政府軍の目の届かない秩父へ抜ける道を勧めた。平九郎は百姓に化けるため大刀を預けたが、何か考えがあってのことなのか越生方面へ下りていった。 午後4時頃、黒山村(現・越生町黒山)に下った平九郎は、新政府方の広島藩神機隊四番小隊の藤田高之一隊の斥候と遭遇する。敵方3人に小刀で応戦し、1人の腕を切り落とし、1人にも傷を負わせたが、右肩を斬られ、足には銃弾を受けた。平九郎の気魄に恐れをなした斥候隊の一人が仲間を呼んで戻ってくると、平九郎は川岸の岩に座して観念の自刃を遂げていた。享年22。 平九郎の首は刎ねられ、今市宿(現・越生町市街地)に晒された。一方、骸は黒山村の人々が全洞院(越生町黒山)に埋葬した。住職は白木位牌に「慶應四年戊辰年 五月二十三日 真空 大道即了居士 位」「俗名不知 江戸之御方而候 於黒山村打死」と記した。
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