飛行船の来日まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 05:28 UTC 版)
「キドカラー (飛行船)」の記事における「飛行船の来日まで」の解説
日本では飛行船事業を起業する関係者により、すでに1964年に日本国内に飛行船をチャーターしようとする動きがあったが、当時の飛行船は巨額の費用を要する物であったことから、限られた資金では新品購入は元より、中古飛行船のチャーター費用ですら交渉がおぼつかなかった。 関係者は、1967年に飛行船を宣伝目的に自家用で所有していた当時の西ドイツの百貨店シュバーブ社(schwab)の飛行船(D-LISA号)のチャーターを目論んでいたが、商談は成立せず、翌年シュバーブ社がアメリカのシンガー社に買収されたことを機に、関係者がチャーターから買収に交渉を切り替えて50万マルクで飛行船の買収が成立し、ようやく戦後初めての飛行船が日本にやってくることになった。 しかし、その1年以上に及ぶ交渉の間にチャーターしたスポンサーが降りたり、その後内定したスポンサーのチャーター料の値引きの応酬があり紆余曲折の末、日立製作所が日本で初めての飛行船広告のスポンサーとなった。 日本には1968年7月初めに5個の木箱に梱包された飛行船が名古屋港に到着し、日本での初飛行を7月20日に決定したが、その後20日間もの税関の手続きや岐阜県の川崎重工業各務原飛行場に移動しての飛行船の組み立て、広告レタリングの貼り付けやガス注入で大幅に日程が遅れたことから、飛行を疑問視する悪質なデマが起きてマスコミからも責め立てられることもあったが、ようやく1968年9月1日に日本国内での飛行船の初飛行に成功した。 その後9月12日には岐阜県各務原から茨城県竜ヶ崎まで長時間フライトを行ない、飛行船の見物で交通渋滞が起きるなどのトラブルが起き、10月18日の営業飛行以降はザ・ピーナッツの「日立キドカラーの歌」を流しながら日とともに北から西に移動したが、その先々の飛行船の係留地が数百台の車や数千人の見物客で混雑して騒動となるなど、日本各地で飛行船フィーバーが起きた。
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