風間次郎太郎の伝授を受けた鳶加藤
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「加藤段蔵」の記事における「風間次郎太郎の伝授を受けた鳶加藤」の解説
『伽婢子』巻10には、上記の「飛加藤」の話と別に、武田信玄が家宝にしていた古今集を盗んで甲州の西郡を風のような速さで進んでいたが、歩行の達人だった「熊若」に捕らえられた犯人が、「我は上州箕輪の城主永野が家につかへし窃(しのび)のもの、もとは小田原の風間が弟子也。わが主君の敵なれば信玄公をころさんとこそはかりしに、本意なき事かな」と言って殺された、という物語を載せていた。 元禄11年(1698年)成立の槙島照武『北越軍談』に登場する鳶加藤は、常州茨城郡の出で、小田原の風間次郎太郎の伝授を受けて幻術を身につけたとされている。 箕輪の長野業正に仕えた後、越府にやってきて長尾景虎の前で「牛を呑む」幻術を披露し、「牛を呑んでいるのではない、牛の背に乗っているだけだ」と声を上げた軽卒がいたので、瓠瓜(ひさご)の種を発芽させ、扇であおいで実を結ばせて、その実を引きちぎると、樹上の軽卒の首が切られていた。その夜、景虎が山岸宮内少輔貞臣の邸宅から長刀を取って来させると、鳶加藤は引き受けて無事に薙刀を提げて来た。 これを見た景虎は、鳶加藤の技を危険視し、山岸に身柄を預けたが、鳶加藤は陶器を沢山並べさせてそれをからくり仕掛けの傀儡(くぐつ)のように操って目を引かせ、術が終わって陶器の片付けをしているすきに逃亡した。 その後、甲府に現れて、跡部大炊助信春の下に寄寓し、武田晴信に仕官した。数ヶ月して、武田家秘蔵の古今集が行方不明になり、鳶加藤が犯人であるとわかった。鳶加藤は、「宝物が欲しかったわけではない。旧主の長野業正が武田家に攻められて苦労していると聞いて耐えられなくなった。晴信公を殺して、旧恩に報いようと考え、寝所の物を盗んだのだ」云々、と白状して誅戮された。 この話は、『伽婢子』の「飛加藤」の話と「熊若」の話を足して、細かい人物情報などを(創作的に)補った説話、と解釈されている。 なお、後者の事件については、『上杉家御年譜』の永禄2年12月上旬の記事にほぼ同じ内容の話が載っている。 またこの「小田原の風間」との関係から、鳶加藤は風魔忍者だといわれることがある。 元文元年(1736年)の江島其磧の『風流軍配団(うちわ)』では、風間の三郎大夫とその弟子となった飛加藤は、2人で長尾謙信に仕え、武田氏との合戦で夜討ちや盗みをして活躍するが、1年ほどで命を狙われるようになり、風間は生国・近江へ戻って百姓になり、飛加藤は大磯で貧乏暮らしをしていたが、三浦氏の遺臣の依頼を受けて北条早雲の家宝の鎧を盗み出す。
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