韓国軍による作戦
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国民革命軍将校であった崔徳新は、第二次大戦後帰国し、その後の朝鮮戦争でも韓国陸軍第11師団長として共産主義ゲリラ討伐のために堅壁清野作戦を実施した。堅壁清野作戦は「必ず確保すべき戦略拠点は壁を築くように堅固に確保し、やむを得ず放棄する地域は人員と物資を清掃し、敵が留まることが出来ないよう野原にする」という内容であった。 1951年2月7日、第11師団第9連隊第3大隊は山清郡今西地域芳谷里佳峴村に進撃し、家屋を焼き払った。金目の物を集めた後、村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃殺、さらに芳谷村民212名、咸陽郡休川地域桐江里村民60名、花渓里、自恵里と咸陽郡柳林の西洲,蓀谷,池谷村の軍警察の家族以外の住民310名を虐殺し、犠牲者は計705名にのぼった(山清・咸陽虐殺事件)。さらに2月9日、居昌郡神院で民家78世帯に放火し、住民80名余を殺戮。2月10日、苽亭里、中楡里、大峴里、臥龍里の全民家を焼き払い、疎開させるという理由で住民を連行し、隊列に遅れた老人20名余を射殺し、女子ども100名余を大峴里担凉渓谷で虐殺した。2月11日には、神院初等学校に強制収容した苽亭里,中楡里の全住民と大峴里,臥龍里の住民1000名のうち軍警察、公務員、青年防衛隊の家族をのぞく540名余の住民を珀珊渓谷に集め、機関銃などで射殺し、焼却した。この居昌虐殺事件の犠牲者は719名であった。山清・咸陽と居昌の事件の犠牲者総計は1424名にのぼった。
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