韓信・白起の再来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:18 UTC 版)
305年、司馬穎の旧将である公師藩らが河北において挙兵すると、司馬虓の命により苟晞は広平郡太守丁紹と共に討伐に向かい、これを撃破した。306年、公師藩は白馬から南に渡河して逃亡を図ったが、苟晞は追撃を掛けてこれを討ち取った。 司馬越と河間王司馬顒の対立が激化すると、苟晞は司馬越に従って司馬顒の将軍劉喬を撃破した。さらに西に出征すると、建武将軍呂朗らを討ってその勢力を散亡させた。 307年、牧人首領の汲桑が大将軍を自称し、前年に殺害された司馬穎の報復を掲げて挙兵した。5月、汲桑は鄴城を攻め落とし、新蔡王司馬騰を殺害した。6月、汲桑は楽陵に攻め込んで幽州刺史石尟(せきしょう)を敗死させ、さらに乞活(流民集団)の田禋(でんいん)を破った。そのまま兗州へ攻め入ると、太傅司馬越は大いに震え上がり、討伐軍を派遣して苟晞を先鋒とした。苟晞は平原と陽平の間で汲桑配下の石勒と対峙し、睨み合いは数ヶ月に渡った。大小合わせて30を超える戦を繰り広げたが、両軍とも譲らなかった。7月、司馬越は自ら軍を率いて官渡まで乗り出し、苟晞の援護に当たった。汲桑はかねてより苟晞を恐れており、城外に陣を築いて守りを固めていた。苟晞は軍を留めて兵士に休息させ、単騎を敵陣へ派遣すると汲桑の兵士へ、抵抗を続けて残虐な目に遭うか、降伏して丁重に扱われるのとどちらが良いかと脅しを掛けた。汲桑の兵士は大いに恐れ、陣を捨てて夜の間に逃げ出し、城内を堅く守った。8月、苟晞はさらに東武陽において敵軍を破って汲桑を敗走させると、追撃して九つの砦を攻め落とし、敵軍の死者は1万人余りを数えた。汲桑と石勒は敗残兵をかき集めたが、冀州刺史丁紹が赤橋において撃破し、遂にその勢力は散亡した。こうして官軍は鄴を奪還した。 これらの功績により苟晞の威光は大いに高まり、当時の人は彼を韓信や白起に例えた。苟晞は撫軍将軍・仮節・都督青兗諸軍事に昇進し、東平郡侯に封じられ、一万戸を加増された。
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