靖康の変まで
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金建国前の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(中国語版)(アルチュフ川)流域にいて、遼に対して服属していた。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。これに対し、女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。 金は1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束した。しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)を落とし、宋に割譲した。阿骨打は1123年に死去するが、弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴルを支配した。 一方、燕京を手に入れた宋軍は、遼の残存勢力と手を組んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京を割譲した金に対する背信行為を繰り返したので、これに怒った太宗は1125年9月宋に侵攻し(靖康の変、1125年9月 - 1127年3月)、華北を席捲し、宋の首都開封を包囲した。宋では欽宗が新たに即位して金の包囲に耐え、金もいったん和議を行い北に引き揚げた。しかし金軍がいなくなると、またしても宋は背信して和約を破ろうとしたので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させ、欽宗を北方に連行し北宋を滅ぼし、中国の北半を征服した。またこの時金軍は、欽宗のみならずその父の上皇徽宗、および多くの皇族や妃、公主たちをも連行し、妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。
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