靖康の変までとは? わかりやすく解説

靖康の変まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:44 UTC 版)

金 (王朝)」の記事における「靖康の変まで」の解説

金建国前の女真ジョシン)は、現在の中国東北地区満州黒竜江省松花江支流・按出虎中国語版)(アルチュフ川)流域にいて、遼に対して服属していた。しかし遼の支配者たちは奢侈募り女真に対して過酷とも言える搾取行っていた。これに対し女真族完顔部から出た阿骨打反乱起こし1115年に按出虎水の河畔即位し、「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。この国号は、女真族が按出虎から産出する砂金交易によって栄えたことによるとされる。最初首都となった会寧上京会寧府)は按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。 金は1120年北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州引き渡すことを約束した。しかし、宋は攻略てこずったために金が燕京現在の北京)を落とし、宋に割譲した阿骨打1123年死去するが、弟の呉乞買太宗)が後を継いで遼との戦い続け1125年逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝捕らえ、遼を完全に滅ぼして内モンゴル支配した一方燕京手に入れた宋軍は、遼の残存勢力手を組んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京割譲した金に対す背信行為繰り返したので、これに怒った太宗1125年9月宋に侵攻し靖康の変1125年9月 - 1127年3月)、華北席捲し、宋の首都開封包囲した。宋では欽宗新たに即位して金の包囲に耐え、金もいったん和議行い北に引き揚げた。しかし金軍がいなくなると、またしても宋は背信して和約破ろうとしたので、1127年金軍は再び南下して開封陥落させ、欽宗北方連行し北宋滅ぼし中国の北半を征服した。またこの時金軍は、欽宗のみならずその父の上徽宗、および多く皇族や妃、公主たちをも連行し、妃や公主たちは全員が金の後宮送られるか、洗衣院呼ばれる売春施設送られ娼婦させられた。

※この「靖康の変まで」の解説は、「金 (王朝)」の解説の一部です。
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