青芒一痕として生まれしか
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
夏 |
出 典 |
冬の智慧 |
前 書 |
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評 言 |
この句の背景にあるものはただ硬く葉を尖らせている青芒だけ。夏の光を浴びて広がる芒原からはぐれるように立つ、たった一本の芒が決然と顕われる。 この世に生を受けたものは、一本の若い芒でさえもすでに何かに傷つき、あるいは何かを重く抱えているのか。この清冽なかなしみは夏の青い空が残した傷痕か、未来の大地が抱える無へのおそれか。俳人齋藤愼爾の根底にある、人生の刹那、どこまでも孤高たらんとする含羞を思う。 齋藤愼爾は山形県酒田市の飛島に育ち、十六歳にして秋元不死男「氷海」に投句、後に「孤島のランボー、または裏日本の寺山修司」とも称される早熟な才能を発揮した。しかし「六十年安保闘争の波濤をまともに浴び」作句を中断。「早稲田文学」の連載にて作句を再開し、十代五年間の作品をまとめた第一句集『夏への扉』が出たのはそれから実に二十年の後であった。 『冬の智慧』は『秋庭歌』に続く第三句集。形式はその存続のために再び齋藤愼爾という俳人の無垢の魂を求めた。〈「おまえにとって俳句とは何か」「おまえは俳句形式になにを加えたか」「そもそもおまえは何者か」―こういう問いを前にして私はかつての師より無様に狼狽える気がする〉と、俳壇というもの、俳句形式というものに深く絶望しながらも、現代俳句の可能性を真正面から追及し続ける。 昨年の大著『ひばり伝―蒼穹流謫』は、同じ時代を傷つきながら生きたひばりへの鎮魂歌。精神の苦しい出口を求めていたその少年時代、ひばりの「悲しき口笛」を「天籟のごとく」聞いたという。 |
評 者 |
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備 考 |
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