秋庭歌
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『秋庭歌』(しゅうていが[注 1]、英語: In An Autumn Garden )は、武満徹が国立劇場からの委嘱により作曲し1973年に発表した雅楽の作品である。後に5曲が書き加えられ、『秋庭歌』を第4曲とする全6曲の『秋庭歌一具』(しゅうていがいちぐ)として1979年に発表された。武満自身がつけた英語によるタイトルは、『秋庭歌』『秋庭歌一具』のいずれも "In An Autumn Garden" であり、両者は区別されていない[注 2]。
注釈
- ^ 初演のプログラムノートでは「しゆうていぐわ」というルビ表記がなされていた[1]。
- ^ 楽譜を出版しているショット・ミュージックでは後者を In an Autumn Garden, complete version と標記している[2]。なお、『秋庭歌』、『秋庭歌一具』ともレンタル譜のみであり、スコアの販売は行われていない[2]。
- ^ 研究者ピーター・バートは武満の創作を3つの時期に区分しており、『鳥は星形の庭に降りる』が作曲された1977年以降を「第3期」としている[5]。
- ^ 木戸が行った雅楽活性化の取り組みには廃絶曲や廃絶楽器の復元がある[9]。
- ^ 木戸が武満に委嘱した年について、沼野(2002)では1970年としているが[13]、立花(2016)では木戸がインタビューに答え「初演の2年前の1971年」と語ったとされている[7]。
- ^ 武満は、師であり『左方の舞と右方の舞』などの作品がある早坂文雄を通して雅楽に関する知識を持っていたものと考えられる[17]。
- ^ このことを記した文章「作曲家の日記ー自然と音楽」(PR誌『ヤマハニュース』に掲載)は1962年の日記という体裁で書かれているが、直後に長女誕生の記事があることなどから1961年のものであると判明している[16]。
- ^ 琵琶については、1961年に放送されたNHKのテレビ番組『日本の文様』の音楽を手がけた際に初めて使用している[23]。
- ^ 1966年には琵琶と尺八のための『エクリプス(蝕)』を、1967年には琵琶・尺八とオーケストラのための『ノヴェンバー・ステップス』を作曲している。
- ^ 舞楽では左舞の唐楽と右舞の高麗楽では使用する楽器が異なっており、龍笛は左舞、高麗笛は右舞で使用される[27]。
- ^ 箏の押し手は古代の雅楽には見られたが、江戸時代初期、後水尾天皇が箏の楽人に対して「右手で満足に演奏できない者が左手を使うのか」という趣旨の皮肉を言ったことから、雅楽では左手の使用がタブーとなったという[21]。
- ^ 上皇明仁は皇太子時代に『秋庭歌』の実演に接した際、普段聞き慣れている雅楽に比べて篳篥が低い音を出していることに気づき、後でそのことを武満に指摘したという[28]。
- ^ 武満自身は、音楽的にはすごく楽に書けたと述べている[25]。
- ^ 黛の『昭和天平楽』も五線譜によって書かれていたが[32]、音楽の語法は伝統的な雅楽の作法に則っていた[33]。
- ^ 第15回雅楽公演では『秋庭歌』の他に古典曲(『承和楽』、『散手』、『綾切』)が演目となっていた[35]。
- ^ このレコードは武満の「三面の琵琶のための『旅』」(演奏:鶴田錦史)とのカップリングで発売された。
- ^ 『秋庭歌』の前年(1972年)に書かれたオーボエと笙のための『ディスタンス』の場合、オーボエが舞台前方、笙が舞台後方に配置される[40]。
- ^ 『地平線のドーリア』では、舞台前方に8名、舞台後方に9名の奏者が配置され、前のグループを「ハーモニック・ピッチ」、後ろのグループを「エコー」と称する[41]。
- ^ ただし1960年代に書かれた『アーク』のようなを前衛的な作品であっても、トーン・クラスターの中に旋律の断片が浮かび上がる場面があり[53][54]、武満が旋律を全く使わなかったわけではない。また、コンサート用の作品以外の分野では、『死んだ男の残したものは』(1965年)など調性的な音楽を作曲している[55]。
- ^ このヨーロッパ公演について、芝のインタビューでは『秋庭歌』初演後に休む間もなく行われたと述べているが[33]、宮内庁のWebページや芝の年譜によれば、『秋庭歌』が初演された後に宮内庁楽部がヨーロッパ公演を行ったのは1976年となっている[66][67][68]。
- ^ 芝によれば、海外公演から帰ってきたときには組曲になることが決まっていた[33]。
- ^ 『秋庭歌一具』は国立劇場の委嘱作品としては第四作にあたる[69]。なお、第三作はカールハインツ・シュトックハウゼンが1977年に作曲した「 LICHT-HAKARI-LIGHT 」(『ひかり』)である[69]。
- ^ 「ストロフ」は古代ギリシャでは合唱舞踊隊が合唱席を左に回転するときの歌であることから、木戸と武満は第1曲の日本語によるタイトルを、雅楽において演奏者が歩きながら演奏する「道楽」(みちがく)とすることを検討したが「道楽」(どうらく)と読めてしまうことから「参音声」とした[70]。
- ^ 東京楽所は、宮内庁楽師の個人参加により1957年に結成された「雅楽紫絃会」を前身とする雅楽演奏団体[71]。1978年に民間の雅楽演奏家も加わえて「東京楽所」と名称を変更した[72]。
- ^ 編成が拡大されたため、宮内庁楽部のメンバー25名だけでは演奏できなかった[33][3]。
- ^ 武満は『秋庭歌一具』には「トヒヨ!」と啼く鳥が登場すると語っており、船山(1998)は武満の言う「トヒヨ!」という鳥の啼声は「吹渡」の冒頭の動機であると推定している[89]。
- ^ 1977年に若手の宮内庁楽師と民間人によって結成された雅楽の演奏団体[95]。
- ^ 伶楽舎のアメリカ公演には武満も同行する予定であったが、この年の2月に死去したために叶わなかった[99][49]。
出典
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- 1 秋庭歌とは
- 2 秋庭歌の概要
- 3 芝祐靖と『秋庭歌』
- 4 脚注
- 秋庭歌のページへのリンク