降格以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/07 06:16 UTC 版)
武蔵路は降格以後も朝廷の管理を外れただけでそのまま維持され、武蔵国から東山道への間道として旅行者に利用された。天長10年(833年)には、武蔵路の通過する途中の多摩郡と入間郡の間に国府によって旅行者の救護施設・悲田処が開設されており、交通が衰えていなかったことを物語っている。 一方、『新編武蔵風土記稿』の榛沢郡の記述によると、東山道に属した頃の武蔵国榛沢郡は官道にあり街道が通っていたため繁栄したが、(宝亀2年(771年)に)武蔵国が東海道に移るとともに人が減り僻遠の地となった、とある。 按上古當國東山道ニ屬セシ頃ハ、官道ニテ、當郡モソノ街道ニカヽレバ、繁榮セシ地ナルベケレド、是ハ尤古代ノ事ナリ、東海道當國ニ移リテ後ハ、人跡モスクナク、次第ニ僻遠ノ地トナレリ — 新編武蔵風土記稿 榛沢郡 総説 また、律令制の衰えとともに道路の整備も行き届かなくなり、次第に道としての機能を果たさなくなった。最終的な廃道の時期は不明であるが、発掘調査[いつ?]によると11世紀頃までは道として使用されていたことが分かっているおり、中世には、かつての東山道武蔵路と並行するような形で鎌倉街道上道が主要な道路として利用されたが、その後中山道が整備されて上野国と武蔵国を結ぶ機能は中山道に譲ったため、多くは近世以降に廃道になった。
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