阿波沖海戦・大坂撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:43 UTC 版)
「阿波沖海戦」も参照 1867年末には幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動しており、京都での軍議にも参加していた。翌1868年(慶応4年)1月2日、大坂湾から鹿児島へ向かっていた薩摩藩の平運丸を攻撃した。薩摩藩の抗議に対し榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張。更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩の春日丸ほかを追撃、阿波沖海戦で勝利した。鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、1月7日に大坂城へ入城した。しかし徳川慶喜は既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた。 榎本は大坂城に残された銃器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を勘定奉行並小野友五郎とともに順動丸と翔鶴丸に積み、自身は新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに富士山丸に乗り、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した。1月23日、海軍副総裁に任ぜられる。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。
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