関東学院時代
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大学卒業と同時に東京学院の教師に就任し、日本バプテスト神学校の講師を兼任した。東京学院中学部では修身を、神学校では倫理学、哲学史などを教えた。アメリカ北部バプテストは1917年(大正6年)3月に東京学院中学部を廃止し、横浜に新しく中学校を開設することを決定し、坂田がその責任者となった。1919年(大正8年)、私立中学関東学院が横浜市南太田町字霞耕地1868番地(現・南区三春台4)に開校し、坂田は学院長として4月9日の第1回入学式に臨み、式辞の中で関東学院の校訓となる「人になれ 奉仕せよ」について述べた。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により鉄筋コンクリートの校舎が全壊した。そこで学校の復興に尽力し、1924年(大正13年)にアメリカ北部バプテストから招かれ、北部バプテスト大会で復興に対する支援を訴えた。東京学院も震災で被害を受け、その復興を検討した結果、1927年(昭和2年)4月に東京学院と中学関東学院が合併して、横浜市に神学部、高等学部、中学部からなる財団法人関東学院を組織し、高等学部長・中学部長に就任した。また、1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)まで捜真女学校校長を兼務した。1933年(昭和8年)5月に副院長、1937年(昭和12年)4月に院長に就任、1944年(昭和19年)5月に理事長を兼務した。1940年(昭和15年)妻チヱが病死し、1941年(昭和16年)に佐々木トシと再婚した。
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