門司市の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 21:23 UTC 版)
明治初年、今の門司港地区には塩田が広がっており、1860年(万延元年)の時点で、門司、田野浦、小森江を合わせた人口は2338人であったが、築港と鉄道敷設により、1894年(明治27年)になると、文字ヶ関村の人口は1万0076人にまで増大し、この年門司町となった。1896年(明治29年)の『門司新報』は、次のように記している。 今や六年前の漁村蟹(かい)屋たりし門司浦は全たく旧形を一変して四通八達の一市街と化し、更らに進んで開港場となり、市とならんとするに至りたり。殊に門司の進歩は一昨明治二十七年より昨二十八年の間に於て尤も著しく面目を一新せしを見る。回顧すれば一昨夏日清戦争の開かるヽや、門司は馬関と相待って宇品港に亜(つ)くの一大要港となり。 — 『門司新報』明治29年1月1日「門司港の経過(明治二十八年度)」 さらに、1899年(明治32年)には、人口2万9290人となり、門司市となった。一方、柳ヶ浦村は、1908年(明治41年)に大里町となった。 日清戦争(1894-95年)を機に、下関・門司の軍事的意義が高まり、各所に砲台や堡塁が築かれた。1897年(明治30年)には、老松町に陸軍兵器廠が置かれ、1899年(明治32年)の要塞地帯法で関門一帯は下関要塞地帯となり、立入りや撮影が規制されるようになった。ただ、兵器廠は、1918年(大正7年)に小倉に移転した。門司港と下関港は、1907年(明治40年)に関門海峡として第一種重要港湾に指定され、国による港湾整備がされることとなった。
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