長岡8万石、村上10万石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:24 UTC 版)
元和2年7月、松平忠輝が改易となり、10月に直寄は3万石加増で再び長岡の領主となり、越後長岡藩が立藩された。築城と共に城下町の整備も行い、外港の新潟町(新潟港、現在の新潟市古町付近)は交易や人口増加の事を考えて諸税を免除し、以後の発展の礎を築いた。 元和4年(1618年)、2万石の加増を受け、越後村上藩10万石に転封。長岡城は完工目前で牧野忠成に引き継がれた。牧野氏は幕府の要職にあり、寛永7年(1630年)まで長岡に入国できなかった事もあり、明暦3年(1657年)の改正までしきたりと称し「堀丹後守御証文通り」として、直寄の制度をそのまま踏襲し、いささかの不便もきたさなかったという。 直寄が村上に入部の際に、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。これを示して老中に百万石を請求をしたところ、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、「これは百万石ではなく百万両であろう、よって佐渡金山を向う3年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。これに怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。後に居城の改築と士分の増員について江戸幕府の詰問を受けた。また、村上藩主として村上城下町の整備に携わり、現在の市街地の基礎を築いた。
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