長山盛晃の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:10 UTC 版)
長山盛晃は生没年不詳であるが、著書『耳の垢』を文政初年(1818年)から書き始め、弘化3年(1846年)に書き終えている。『耳の垢』には空素沼に関する記述がある。 烏沼 これはむかし狼沢といふて僅かの小池なりしと。予が親父などの咄(はなし)に、親幼少なる頃、九拾余なる甚三郎といへる者は寺内生まれにて、委(くわ)しく咄を聞きたりとて咄すに、かの処は彼が幼少の頃まで蜻蛉(とんぼ)など取りに行きて、小さき池なりしに、一ト年大あれにて此の沢の出口砂にて埋まり、東に大なる沼になりて今のごとくになりたりとなり。その時寺内に大悲寺やしきの跡に不(? くにがまえに不)に用いる竜頭(りゅうず)、夕誉の細工にて、処の者尊信(そんしん)してまつり玉ひしを盗み取りて逃去り、夜明けて持行く事かなはず、かの池に沈めかくせしに、その翌年大あれに如斯(かくのごとく)なりたりとなり。依而(よって)土俗の説にかの竜頭此の沼の主になりたりと云へり。今は社など立て尊信せり。
※この「長山盛晃の記録」の解説は、「空素沼」の解説の一部です。
「長山盛晃の記録」を含む「空素沼」の記事については、「空素沼」の概要を参照ください。
- 長山盛晃の記録のページへのリンク