長兄・甥およびフランス諸侯との抗争
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「ヘンリー1世 (イングランド王)」の記事における「長兄・甥およびフランス諸侯との抗争」の解説
第1回十字軍に参加して不在中であったロベール2世は、ノルマンディーに戻ると王位を主張して1101年7月にイングランドに侵攻した。ヘンリー1世は先んじて3月に兄への備えとしてフランドル伯ロベール2世と同盟を結び、兄の侵攻を防ぎ和睦して王位を承認させた。1106年には逆にノルマンディーに侵攻、9月28日のタンシュブレーの戦いで勝利して兄を捕らえると、ウェールズのカーディフ城に幽閉してその目を刳り貫き1134年に死ぬまで幽閉、ノルマンディー公国を手に入れた。 だが、手に入れたノルマンディーは危険な状況になっていた。ノルマンディー公国の宿敵であるアンジュー伯兼メーヌ伯フルク5世がフランス王ルイ6世と同盟し敵対したからであり、ヘンリー1世の甥でロベール2世の息子ギヨーム・クリトンがノルマンディー公位を要求して彼等と手を組み、ギヨームを支持してヘンリー1世に反抗するシュルーズベリー伯爵ロバート・オブ・ベレーム(英語版)らノルマン貴族たちや、フルク5世の親戚のアモーリー・ド・モンフォールも連携したことでヘンリー1世は窮地に立った。 1112年に反撃に出てシュルーズベリー伯を逮捕してからは好転、軍事的に優位に立つとフルク5世と和睦、翌1113年にメーヌにおいてフルク5世の臣従を認め、フルク5世の長女マティルドと息子ウィリアム・アデリンの婚約(1119年結婚)も交わし、ルイ6世とも和睦してノルマンディーは一時平和になった。しかしモンフォールが再度ヘンリー1世に反乱を起こすと、ルイ6世とフルク5世は敵に戻り、フランドル伯ボードゥアン7世も介入してノルマンディーへ侵攻して苦戦は続き、1118年にはアランソンでフルク5世に敗北している。 同年にボードゥアン7世が負傷して離脱すると再起しフルク5世と再び和睦、1119年8月20日のブレミュールの戦い(英語版)でルイ6世とギヨームの連合軍を破り、ルイ6世に自らのノルマンディー支配と息子ウィリアムの臣従を認めさせた。騒乱は収まったかに見えたが、翌1120年にウィリアムがホワイトシップの遭難により事故死した後、フルク5世は1123年に次女シビーユとギヨームを結婚させまたもや敵方に回り、ノルマンディーでも3度モンフォールら諸侯の反乱が発生した。ヘンリー1世は翌1124年に諸侯の反乱を破り、ローマ教皇に働きかけてシビーユとギヨームの結婚を無効にしてフルク5世との連携を絶った。ルイ6世はギヨーム支持に戻り空位になったフランドル伯位をギヨームに与えたが、1128年にギヨームが戦死したことでようやくノルマンディー支配は安定を見せた。 以後はフルク5世との和睦に腐心、同年にフルク5世の嫡子でマティルドの弟ジョフロワ4世とヘンリー1世の娘かつウィリアムの姉マティルダを結婚させた。1133年に2人の間に生まれた孫アンリが後にイングランド王ヘンリー2世としてプランタジネット朝を創始する(フルク5世は結婚した息子にアンジューを譲り、エルサレム王国へ向かい王女メリザンドと再婚、エルサレムを治めることになる)。
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