銃殺後の出来事
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「第33SS武装擲弾兵師団」の記事における「銃殺後の出来事」の解説
銃殺後、捕虜の遺体はその場に放置され、5月10日の夕方には第2自由フランス機甲師団の最後の部隊がバート・ライヒェンハルを出発した。彼らと交代してこの地を担当したアメリカ軍部隊の従軍司祭とアメリカ兵によって12名の武装親衛隊フランス人義勇兵の遺体は埋葬され、木の十字架に犠牲者の名前が刻まれた。 その後、バート・ライヒェンハル近隣の住民の間に、12名ほどのフランス人SS兵士がカールシュタインで銃殺されたという噂が流れた。噂の事実確認に当たった地元ドイツ警察は第2自由フランス機甲師団の将兵が関与していると調査したが、それ以上の追及は行われなかった。 銃殺から間もなく、反共フランス義勇軍団および「シャルルマーニュ」師団の従軍司祭ジャン・ド・マヨール・ド・リュペがクーゲルバッハ川畔を訪れ、捕虜の埋葬場所において十字を切った。 1945年末から1946年初頭にかけての冬、犠牲者の名を刻んだ十字架が「消滅」した。これは不気味な現象でも何でもなく、近くにある樹木の伐採場から転がってきた丸太が十字架を崩れさせたのであった(この時は誰も十字架を別の場所に移動させようとしなかった)。 1949年6月2日、カールシュタインにおいて銃殺された12名の武装親衛隊フランス人義勇兵の遺体がバート・ライヒェンハルのザンクト・ツェノ (Sankt Zeno) 共同墓地(墓番号Grupp 11, Reihe 3, Nr. 81 und 82)に改葬された。 1963年7月6日、遺体は再度掘り出され、第一次世界大戦の死者を偲ぶ記念碑の近くの壁の前に改葬された。そして、犠牲者のうち5人の名前が改めてプレートに刻まれた。 PAUL BRIFFAUTROBERT DOFFATSERGE KROTOFFJEAN ROBERT8 UNBEKANNTEGEFALLEN AM 8.5.1945RAYMOND PAYRAS 当初は上から順に「ポール・ブリフォー、ロベール・ドファ、セルジュ・クロトフ、ジャン・ロベール、身元不明8名、1945年5月8日没」と記されていたが、後にレイモン・ペイラの身元が明らかになると彼の氏名もプレートの下部に追加された(ただし、その際に「8 UNBEKANNTE」(身元不明8名)の箇所は訂正されていない。また、「Robert Doffat」の氏名は正確にはRaymond Daffasである)。 1981年10月25日、12名の武装親衛隊フランス人義勇兵の銃殺場所に彼らの記念十字架が建立された。 今日、毎年5月には、1945年5月8日にバート・ライヒェンハルで処刑された12名の武装親衛隊フランス人義勇兵のための追悼式がクーゲルバッハ川畔で行われている。
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