野球解説者・プロ野球監督時代
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「芥田武夫」の記事における「野球解説者・プロ野球監督時代」の解説
1952年には朝日放送(ABC)の専属野球解説者第1号に就任。2月29日・3月1日に行われた同局初のプロ野球中継(南海対巨人の定期戦=オープン戦2試合。いずれも、14:00 - 15:40に放送)を担当したが、同年途中の9月17日、プロ野球の近鉄パールス監督に就任。 1953年に小玉明利が入団テストを受けた際、捕手の根本陸夫は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した。だが根本は「3年まで待つと他球団に取られる。」として強引に口説いた。小玉は自ら高校を中退して入団の道を選んだ。また、一軍公式戦出場のなかった1955年から1956年はプロ野球経験のない芥田を根本がサポートし、投手のローテーションを決めていた。万年最下位という汚名を返上し、チームを躍進させるきっかけを作った。 1957年シーズン途中の6月22日に休養、加藤春雄が代理監督となり、11月26日に加藤へ監督の座を譲り辞任。
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