野球理論の形成は原稿書き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)
「広岡達朗」の記事における「野球理論の形成は原稿書き」の解説
1965年には87試合に先発出場していた。 1966年の開幕10試合以降は出場機会が激減し、土井正三、黒江透修に定位置を奪われた。10月31日、広岡はオーナーの正力亨と話し合って現役を引退した。幾度となく川上と衝突した経験から、自分の野球理念が正しいかどうかを確かめるため、アメリカに渡りメジャー・リーグを視察することを決意した。この直前、東京オリオンズからコーチとしての入団を誘われたが、既に渡米を決意していたために断っている。 1967年2月23日に広岡は羽田空港を出発して渡米し、最初にハワイのマウイでキャンプ中だった東京オリオンズを訪ね、次にサンフランシスコ・ジャイアンツを約2週間にわたって訪問した。その後、ロサンゼルス・ドジャースのキャンプ地であるフロリダ州ベロビーチにあるドジャー・タウンを訪問し、古巣・巨人がキャンプを行っているために再会を楽しみにしていたが、出迎えに来た関係者からドジャー・タウン以外のホテルを紹介された。広岡は困惑して一夜を過ごし、翌日になってドジャースの社長秘書の生原昭宏に会うと、生原から「巨人軍から『広岡をタウンに入れないでほしい』という申し入れがあったのです。誰がそう言ったのか、その人の名は訊かないで下さい」と打ち明けられる。その発言を受けた広岡は発言主が川上であると確信し、激しい怒りを覚えたという。同時に川上を超える野球を身に着けることを決意したが、広岡への対応は川上個人だけでなく巨人の選手の大半から接触を避けられて不快感を示したが、森祇晶だけは広岡が宿泊しているホテルを度々訪ねたこともあり、広岡は森の好意に感謝した。 アメリカから帰国後は、ラジオ関東の野球解説者に就任。また、スポーツニッポンとの契約も決まっていたが、アメリカ視察が長引いたために契約を打ち切られてしまう。広岡は仕方なくサンケイスポーツを自ら訪ね、評論家として契約してもらえるよう直談判したが、同紙の運動部長だった北川貞二郎からは「自分自身で原稿を書く」ことを条件に採用される。北川から文章について猛特訓を受けたこの時の経験が、後に自身の野球理論形成に大きな影響を与えることになる。
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