野球熱の異様な高まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 13:46 UTC 版)
この連載当時、学生野球の人気はすさまじいものがあった。1906年(明治39年)秋の早慶戦は第1戦が10月28日に早大戸塚グラウンドで慶應義塾大学が2 - 1で勝利。続く第2戦は11月3日に慶大三田グラウンドで早稲田大学が3 - 0で雪辱。第3戦は11月13日に決まったが、あまりに盛り上がりすぎて早慶のみならず審判を務める予定だった学習院にまで脅迫状が届く事態となり、無期延期となった。 その後、対戦相手を失った早慶両校は渡米したり、逆にアメリカ合衆国からチームを招聘したりするようになる。選手はちやほやされるようになり、味を占めた選手の中には野球を続けるためわざと留年したあげく新任教師より年上という者まで現れた。 さらに他の学校でも野球は大人気だったが、行き過ぎた応援が徐々に問題視されるようになり、野球禁止を掲げる学校が増えていった。あまりにも野球人気が高くなりすぎたために賛否両論が巻き起こったのである。
※この「野球熱の異様な高まり」の解説は、「野球害毒論」の解説の一部です。
「野球熱の異様な高まり」を含む「野球害毒論」の記事については、「野球害毒論」の概要を参照ください。
- 野球熱の異様な高まりのページへのリンク