里見家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 19:31 UTC 版)
館山城 岡本城 関連地図 戦国時代、安房国から勃興した里見氏は上総国に勢力を広げ、後北条氏と関東の覇権をめぐって争った。館山城の築城年代については諸説あるが、岡本城を居城としていた里見義頼が天正8年(1580年)頃に築城して城番を置き、義頼の後を継いだ義康が天正16年(1588年)から天正18年(1590年)にかけて改修したとされる。 天正18年(1590年)、義康は小田原征伐の際に惣無事令に反して独自の制札を発したことから豊臣秀吉の不興を買った。上総国は没収されて安房一国のみが安堵され、里見家は豊臣政権下の大名として位置づけられる。義康は居城を館山城に移し、9万2000石の所領を治めることとなった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて義康は東軍に与して宇都宮城の守備にあたり、戦後これが功績とされて常陸国鹿島郡に3万石を与えられ、都合12万2000石の大名となった。また、義康の弟の里見忠重も上野国板鼻藩1万石の大名に取り立てられている。 義康は館山城の改修と城下町の整備を進めた(館山町を参照)。鹿島郡の領民が普請したとされる堀が「鹿島堀」の名で残っている。慶長8年(1603年)に義康は31歳で死去し、後を子の里見忠義が継いだ。しかし忠義は大久保忠隣の孫娘を妻としていたため、慶長19年(1614年)の忠隣改易に連座して改易された。なおこれより先、叔父の忠重も改易されている。忠義は伯耆国倉吉藩に移されたが、実際には流刑に等しいものであったという。館山藩は廃藩となり、館山城は破却された。
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