里見四郎左衛門親長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 14:47 UTC 版)
「里見四郎左衛門」の記事における「里見四郎左衛門親長」の解説
幕末の水戸藩士で尊王の志士。天狗党の乱で敗北し自害。 寛政6年(1794年) - 元治元年(1864年)。初名を長八郎、雅号を松軒という。父は里見四郎左衛門親候、母は信木厚の女。妻は戸田三右衛門忠之の女。戸田忠之の女との間に、嫡男親賢と一女を儲ける。後に別離。後室との間に里見平三が生まれる。文政8年(1825年)、家督を継いで大番組となった。その後中槍奉行、旗奉行と職責を果たし安政4年(1857年)に致仕する。元治の役で一族を率いて参軍し、家を引き払って水戸城の東にある栗崎村の民家に隠れていたが、諸生党の追手に探知され、後妻多免子を手にかけ切腹して果てた。茨城県水戸市松本町常磐共有墓地。享年71。室 石原氏とも靖国神社合祀。
※この「里見四郎左衛門親長」の解説は、「里見四郎左衛門」の解説の一部です。
「里見四郎左衛門親長」を含む「里見四郎左衛門」の記事については、「里見四郎左衛門」の概要を参照ください。
- 里見四郎左衛門親長のページへのリンク