里見八景園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:48 UTC 版)
大正末期から昭和初期にかけて存在した遊園地で、教導団病院の移転により造成され、廃止後は再び陸軍病院の分室が作られた。創設者は、東京でトタンやブリキを扱う問屋を営んでいた蓜島家と、メッキ加工業を営んでいた佐々木家で、「東洋一の遊園地」を目指して1918(大正7)年頃から構想を練り始め、1920年代初期に開園し、1933年ころまで続いた。園内には、大丸太渡しや大滑り台、プール、動物小屋、音楽堂、演芸舞台、料理旅館「鴻月」、茶屋等が設けられ、創業と同時に千本の桜が植樹され、春には花見客で賑わった。東京方面から直接来られるように江戸川の対岸の小岩地域と「鴻月」前の船着き場を行き来する「栗市の渡し」も設けられ、希望すれば柴又帝釈天まで送迎するサービスもあった。佐々木家は中の茶屋と演芸場などを経営し、蓜島家は「鴻月」と「栗市の渡し」のほか、さつき園と、土橋亭、大観亭、富士見亭という茶屋と桟敷を経営した。「鴻月」は市川三業組合(花街)に属していた関係から、1986年には蓜島正次(創業者の子で東京ベイ信用金庫会長、市川市名誉市民)らの呼びかけにより、市川真間の浮嶋弁財天に「名妓之碑」が建立された。
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