里見四郎左衛門親賢とは? わかりやすく解説

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里見四郎左衛門親賢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 14:47 UTC 版)

里見四郎左衛門」の記事における「里見四郎左衛門親賢」の解説

幕末水戸藩士尊王志士。父と同様、天狗党の乱において天狗方に加わり、神勢館の戦いにおいて敗れ降伏切腹する。贈正五位文化12年(1815年) - 慶應元年4月5日(1865年4月29日)。初名は里之介、鉄之介、直之進、元服家督改名家督継いだ折は四郎左衛門襲名する。父は里見四郎左衛門親長、他に同母妹、異母兄弟がいる。母方叔父には戸田忠太夫安島帯刀従弟には戸田銀次郎がいる。天保9年1838年)、藩主徳川斉昭により新設され床机廻に任ぜられ、同12年1841年5月大番組となる。弘化元年1844年)には小納戸役昇任し嘉永3年1850年武芸指南の功で白銀賜る安政元年1854年)、家督継いで四郎左衛門襲名し町奉行拝命尊皇攘夷派与する様になる同年4月米国船舶横浜入港時には床机廻を率いて江戸水戸藩邸を守衛する。文久元年1861年)、東禅寺事件に際して領内取締不行届き免職するが、同2年1862年6月歩行頭として再勤となった元治元年1864年)、天狗党の乱起きた際には、藩主徳川慶篤水戸藩鎮定のため、支藩である宍戸藩主・松平頼徳目代として派遣したが、これに尊王派従軍したため、水戸城拠る諸生党が頼徳の入城拒否する。親賢は天狗党総督であった榊原新左衛門幕下として頼徳一行に従軍していたが、水戸城についた折、頼徳の入城拒否発端として頼徳・天狗党諸生党との間で神勢館の乱が起きるが、幕府軍諸生党加担したため、頼徳は幕府降伏してしまう。天狗党大将 榊原新左衛門幕府軍と戦うのは本意ではない降伏里見親賢もこれに従った。親賢は古河藩預けられ慶應元年1865年4月切腹となる。享年51墓地は父同様に水戸市松本常磐共有墓地大正7年1918年)、正五位贈位された。

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