里見四郎左衛門親賢
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「里見四郎左衛門」の記事における「里見四郎左衛門親賢」の解説
幕末の水戸藩士で尊王の志士。父と同様、天狗党の乱において天狗方に加わり、神勢館の戦いにおいて敗れ降伏、切腹する。贈正五位。 文化12年(1815年) - 慶應元年4月5日(1865年4月29日)。初名は里之介、鉄之介、直之進、元服家督と改名。家督を継いだ折は四郎左衛門を襲名する。父は里見四郎左衛門親長、他に同母妹、異母兄弟がいる。母方の叔父には戸田忠太夫、安島帯刀、従弟には戸田銀次郎がいる。天保9年(1838年)、藩主・徳川斉昭により新設された床机廻に任ぜられ、同12年(1841年)5月、大番組となる。弘化元年(1844年)には小納戸役に昇任し、嘉永3年(1850年)武芸指南の功で白銀を賜る。安政元年(1854年)、家督を継いで四郎左衛門を襲名し、町奉行を拝命し尊皇攘夷派に与する様になる。同年4月、米国船舶の横浜入港時には床机廻を率いて江戸の水戸藩邸を守衛する。文久元年(1861年)、東禅寺事件に際して領内取締不行届きで免職するが、同2年(1862年)6月に歩行頭として再勤となった。元治元年(1864年)、天狗党の乱が起きた際には、藩主徳川慶篤が水戸藩の鎮定のため、支藩である宍戸藩主・松平頼徳を目代として派遣したが、これに尊王派が従軍したため、水戸城に拠る諸生党が頼徳の入城を拒否する。親賢は天狗党の総督であった榊原新左衛門の幕下として頼徳一行に従軍していたが、水戸城下についた折、頼徳の入城拒否を発端として頼徳・天狗党と諸生党との間で神勢館の乱が起きるが、幕府軍が諸生党に加担したため、頼徳は幕府に降伏してしまう。天狗党の大将 榊原新左衛門も幕府軍と戦うのは本意ではないと降伏、里見親賢もこれに従った。親賢は古河藩に預けられ、慶應元年(1865年)4月に切腹となる。享年51。墓地は父同様に水戸市松本常磐共有墓地。大正7年(1918年)、正五位を贈位された。
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