都市と市民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
明末から清にかけては都市化が進み、都市の住民が行政に参加するようになった。商工業の発達とともに都市の人口が急増して、明清時代の史料では都市の住民はしばしば「市民」と呼ばれた。ここでの市民とは市井の民(市街の人々)であり、農村部の人々を指す郷民に対する呼称であるため、ヨーロッパ都市における市民権を持つ階層とは異なる。明末からは、こうした市民が政治的な集団として行動するようになった。商工業者の上層の人々は都市に帰属意識をもち、各県の官僚とは別個に都市の行政に参加して近代市政を築いた。しかし大半の市民は行政に参加できず、時には暴動を起こした。特に中下層の市民は、主食である米価に反応して米騒動を起こした。それまでは農民が中心だった中国の民衆反乱は、都市住民の影響を受けることとなった。各地で税や宦官に対する暴動が起き、都市では万暦帝の時代の杭州民変や臨青民変などが有名である。 都市の住民は、現代における労働争議に近い面をもつ騒動も起こした。蘇州では明末から機織をする職工が多数おり、万暦帝の時代には失業した職工が暴動し、清初の康熙帝の時代には1670年をはじめとして職工が賃上げを要求して作業放棄を起こした。度重なる要求によって賃金は上昇し、米価に合わせてスライドで賃上げをするようになった。
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