避難時の悲劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
天明5年4月27日(1785年6月4日)、八丈島島役所が派遣した3艘の救助船が青ヶ島に到着した。このとき青ヶ島には200人あまりの島民がいた。4月末になって噴火はいよいよ激しさを増し、島民たちは海に浸かりながら噴火による熱をなんとか避けている状況であった。 激しい噴火が続く中、3艘の救助船は青ヶ島への接岸に成功したが、救助時に悲劇が起こった。3艘の船では200人あまりの島民全員を乗せることが不可能であった。まず体力のない多くの老人、子どもたちが船に乗り遅れ、熱い火山灰が降り注ぐ中、船に乗ろうとして海で溺れる者や浜辺で乗せてくれと泣き叫ぶ者たちが大勢いた。言い伝えによれば船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。結局3艘の救助船には108名の島民と1名の流人の、合計109名が乗船し、130 - 140名の島民は乗船することができずに噴火が続く青ヶ島で死亡したと見られる。 しかし避難時に100名以上の島民を置き去りにせねばならなかったことは、避難当時の記録にはまったく記されていない。このことは近藤富蔵が著した八丈実記に詳細が記されており、また後年青ヶ島への帰島が試みられる中、激しいネズミの害に悩まされ続けることになるが、ネズミは青ヶ島で非業の死を迎えなければならなかった人々の霊魂が化したものと考えられ、施餓鬼供養が行われるようになったことが記録に残っている。
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