造営の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:39 UTC 版)
14年後の天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められるが、再度の中断をはさんで天武天皇2年(673年)に心柱を建て、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。塔の造営開始から心柱が建つまでに10年も要しているのは、白村江の戦いや壬申の乱などの混乱で工事が頓挫したためと考えられる。 天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)3月25日(石川麻呂の命日)にはその丈六仏像が開眼されている。この仏像は講堂に安置された薬師如来と考えられ、現在は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。 以上の創建経緯は、発掘調査の結果や出土した古瓦の編年からおおむね事実と認められており、7世紀末までに全体の伽藍が完成したと考えられる。なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫で天武天皇の皇后の菟野皇女(のちの持統天皇)の後ろ盾があったと推定されており、以降は官寺に次ぐ扱いを受けている。
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