造営の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/26 07:25 UTC 版)
大谷池のある旧南伊予村は、毎年のように旱魃と水害に悩まされ続けていた。 1922年(大正11年)の大旱魃、翌年の水害、1930年(昭和5年)の旱魃では稲は枯死するなど被害が続いたため、南伊予村長であった武智惣五郎が「成否はもとより天にあり、吾れ死すとも辞せず」という決意のもと、私財を投入し、大谷池築造に取り組んだ。その年「伊予郡南伊予村3ヶ町村用排水改良事業」として着工したが、室戸台風により基礎工事が崩壊し、その上岩質がもろく、漏水防止工事は困難をきたした。着工後も、日中戦争から、第二次世界大戦での資金不足で1942年(昭和17年)に「愛媛県営事業」に移行した。 のべ人数37万3000人の村民が奉仕的に人力作業に従事した後、1942年(昭和17年)4月に竣工した。 伊予市内には武智惣五郎の功績をたたえた胸像や顕徳碑が建立されており、毎年稔りの秋には、多くの人々が大谷池に集って、盛大な感謝祭を催しその遺徳を偲んでいる。
※この「造営の経緯」の解説は、「大谷池」の解説の一部です。
「造営の経緯」を含む「大谷池」の記事については、「大谷池」の概要を参照ください。
- 造営の経緯のページへのリンク