造営氏族の推定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:29 UTC 版)
シシヨツカ古墳が造営された平石谷には、この古墳以外にも終末期古墳としてツカマリ古墳、アカハゲ古墳が存在しそれらも、最近の調査によっていずれも墳丘規模が数十メートルあるのが明らかにされているが、これらの古墳群の被葬者または造営した氏族に関する記録や伝承などはないようである。終末期の古墳としては大規模なものに属するこれらの古墳を3代にわたり造営した主体としては歴史に名の残る人物、氏族であった可能性が高い。その候補に蘇我氏一族も考えられるが、蘇我氏の河内における墳墓は3kmほど北にある磯長谷古墳群の中に用明天皇陵古墳、推古天皇陵古墳、聖徳太子墓などともに営まれたようであり、それよりも古墳時代から飛鳥時代にかけて軍事、外交で活躍し、当古墳のある南河内地方にも勢力範囲を持っていたと伝えられる大伴氏一族を想定する説もある。
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