造営集団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:48 UTC 版)
白石太一郎によると平尾山古墳群(平尾山千塚古墳群)は同じ河内に造営された高安古墳群(高安千塚古墳群)などとと同じく、渡来系氏族の古墳に特徴的な炊飯具のミニチュアの副葬がみられることから、河内に定着した渡来系集団の残した群集墳である可能性が高い。しかし、平尾山古墳群の造営が6世紀前半に始まり、そのピークが7世紀前半におよぶのに対し、高安山古墳群の場合、同じく6世紀前半に始まりながら7世紀初めには造営の終焉を迎えるという大きな差異があるのも明らかである。この背景として考えられるのは、平尾山古墳群が蘇我氏の配下にある渡来系集団によって営まれたものであり、高安山古墳群は6世紀末に蘇我氏との抗争に破れ没落した物部氏の支配下にあった渡来系集団が造営したことによるものではないかとしている。
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