退官後から死まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:50 UTC 版)
退省後の添田は、銀行家・実業家・政治家・学究として多彩な活動を続けた。法学博士の学位(当時は経済学博士の学位が存在しなかったため)を受けた1899年、同郷の友人である杉山茂丸の推薦により、日本統治下にあった台湾の中央銀行である台湾銀行の設立に参画し、自ら初代頭取に就任した。その後、1902年の日本興業銀行設立、1912年の日仏銀行設立にもそれぞれ参画し、前者については初代総裁を務めた。 大正期に入って、いわゆる排日法と言われるカリフォルニア州外国人土地法のロビー活動にあたったが、力及ばず1913年に同法は可決した。1914年には第2次大隈内閣の鉄道院総裁となり、前任の仙石貢を引き継ぎ鉄道広軌化を目指したが、実現には至らなかった。1925年には勅選貴族院議員となり、その死まで在任していた。また友愛会設立(1912年)への関与と同会顧問就任、労資協調の調査機関である協調会(1919年発足)への参加、志を同じくする実業家・武藤山治が1923年に結成した実業同志会への参加は、先述した社会問題への関心の延長線上にあるものだった。 1929年(昭和4年)胃癌から癌性腹膜炎を併発して死去(享年66)。通信員として関わった『エコノミック・ジャーナル』には、添田に対する追悼文が掲載された(同誌に追悼文が掲載された日本人は彼だけであり、ケインズが追悼文を書いた唯一の日本人でもある)。墓は青山霊園にある。
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