躰道選手として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 00:32 UTC 版)
躰道部に入部し、大学3年時までは目立った結果を残せずにいたが、大学4年時の2001年に那覇世界選手権の日本代表に抜擢される。するとその秋の全国学生躰道優勝大会で初のメダリストとなり、また全日本躰道選手権大会では団体展開競技において日本一の栄冠に輝く。その後2002年、2003年も数々の実績を残した。 2004年に大学を卒業し、横浜市躰道協会に移籍。2005年には東京城北地区躰道協会に復帰した。実戦競技にてその年のヨーテボリ世界選手権出場を目指していたが、最終選考にて代表を逃す。 2007年暮れからつくば躰道協会に移籍し、翌2008年末には古巣の東京城北地区躰道協会に戻った。そして2009年の広島世界選手権出場を目指すも、古くからの持病であった腰椎椎間板ヘルニアが悪化、2009年8月に緊急入院、手術の運びとなり断念した。 腰椎椎間板ヘルニアにより、左下肢の激痛と運動麻痺(左足関節と足趾を背屈することができなかったという)が生じており、術後もその症状がすぐに回復したわけではなかった。しかし1年に及ぶ厳しいリハビリを経て、2010年の東京城北地区躰道優勝大会にて試合復帰を果たした。 その後宮下宏紀とともに湯島道場を立ち上げ副代表に就任。2013年のヘルシンキ世界選手権を目指していた。2012年の全日本躰道選手権大会男子展開競技予選にて3位となったことが評価され、日本代表候補となる。2013年3月31日に中野区立第八中学校で行われた最終選考にて代表入りを逃したものの、同年に行われた第68回国民体育大会の展開競技にて優勝した。 2017年の甲府世界選手権に、団体展開競技で出場することを目指していた。しかし、その代表選考を兼ねた2016年秋の全日本選手権の直前に、チームメンバーが故障し、出場辞退を余儀なくされた。2017年は大会に参加せず、その去就が注目されたが、2018年になり現役続行を表明した。
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